最初に名前が知られた主教はゾシムス(433年頃)である。6世紀には、地震で破壊されたが(プロコピオス著『ヒストリア・アルカナ』より)、オフリド近隣で生まれたという東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって再建された。ユスティニアヌスによって町はユスティニアナ・プリマと呼ばれたという(彼が建てた新しい都市のうち最も重要な都市として)。しかし歴史家デュシェーヌは、別のイリュリアの開拓された町スクピがこのユスティニアナ・プリマだと主張する(Les églises séparées, Paris, 1856年 240)。新たな都市が県都かイリュリア地域圏の都となり、政治の便宜上で市はイリュリア都市のキリスト教会中心地、または帝国の南部ドナウ地域(南部ハンガリー、ボスニア、セルビア、トランシルヴァニア、モルダヴィア、ワラキア)のキリスト教会中心地にされた。ユスティニアヌス1世は、ローマ教皇アガペトゥス1世かシルウェリウスからの申し分のない承認を、この処置のためすぐ得ることはできなかった。キリスト教会の権威の侵害に加え、皇帝の行いは、イリュリア地方における教皇の司教座の典型として、テッサロニキの古代の権利に対する損害となった。それにもかかわらず、新たな司教座が要求され、事実、教会の自主独立特権、またはキリスト教会の独立特権を獲得した。その長く様々に変化させた歴史を保ち続けて、また格闘し続けて、この特性が得られたのである。ユスティニアヌスから圧力を加えられた教皇ウィギリウスは、世俗領土の広範な管内に含まれるユスティニアヌス・プリマの、大主教管区による大主教権の儀式を認めた。しかし、教皇グレゴリウス1世は、ローマ教皇の主教座に対する他のイリュリア主教たちと同様に、ローマへ従属するようユスティニアヌスを扱ったのだった。
7世紀のアヴァール人とスラヴ人の侵入は、この古代の信仰・文明化中心地の荒廃をもたらし、2世紀にわたって府主教の特性は停止状態になった。
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しかしイリュリアにおいて新たにブルガリア人の改宗が進んだ後(864年)、主教座が再び目立つことになり、この時代に市はアクリダの名で呼ばれていた。ビザンツ人宣教師らがこの地域で最初にキリスト教教義を説いて回ったけれども、ローマから大司教が送られた。そこから、ブルガリア人は自らの初の公式説明と、キリスト教信条と規律における事柄の勧告とを書いた。コンスタンディヌーポリ総主教ニコラオス1世ミスティコス (在位:858年-867年)の書いたResponsa ad Consulta Bulgarorumの中に見られるこのブルガリア人の業績は、中世の教会記録のうち最も影響を及ぼしたものの一つとされる [2]. しかし、ブルガリア王(クニャズ)ボリスはすぐにビザンティンの影響に感化された。第4コンスタンティノポリス公会議が869年に開催された際、ブルガリアは東ローマ帝国のコンスタンディヌーポリ総主教庁と一体化され、870年にラテン人の宣教師らが追放された。それから東ローマ帝国の府主教がオフリドを管掌するようになった。オフリドはブルガリア皇帝サムイル時代に帝国の首都となった。10世紀には好戦的な支配者の遠征により利を得て、オフリドは東ローマ帝国に新たに含まれた領土の府主教座となった(拡大したマケドニア地方、テッサリア、トラキア)。ブルガリアがフォティオスの分離(ローマとコンスタンティノープル両教会の対立)において9世紀終わり頃からコンスタンティノープル側につくと、オフリドの主教座は西方教会と教皇の影響から脱した。
1018年にブルガリア帝国は東ローマ皇帝バシレイオス2世によって崩壊させられ、バシレイオス2世はオフリドをより近くコンスタンティノープルに接触できるようにした。ここにオフリドはブルガリアのオフリド府主教座となった。1053年、オフリド府主教レオ(en:Leo of Ohrid)は、ラテン教会に対抗してトラーニのヨハネへ、ミカエル・カエルラリウスと同意の上回覧状を送った。1078年にオフリド府主教テオフィラクトゥスは、高名な中世ビザンティン聖書解釈者の一人であった。彼は自ら書いた文通において、オフリド主教座の伝統的独立性を主張した。コンスタンティノープル主教は、コンスタンティノープルから独立した主教がブルガリアにおいて聖職授与をする権限はないと言った。実際、オフリドはこの時期にコンスタンティノープルやローマのどちらとも親しく交わっていた。しかしローマの司教座のため、オフリドの感情は友好というには劣り、14世紀にオフリド主教アンティムスは、父なる神と子から精霊が突出することに対して記述していることがわかっている。けれども、ラテン人宣教師たちが14世紀から15世紀にかけオフリドに現れた。その多くがフランチェスコ会聖職者で、彼らはこの地方でのローマ教会支配権の保護を義務として負っていた。13世紀、名の知られた裁判官デメトリオスがオフリド大主教となった。
17世紀の在オフリドのラテン人司教らは、同時代の者がそうであったように、専制的な司教であった。オフリドの教会の独立は近代においてうわべだけであり、ブルガリアにおけるカトリックの影響はそのままにされていた。コンスタンティノープル総主教アルセニウスは、オスマン帝国のスルタン・ムスタファ3世の依頼で1767年についにオフリド府主教座を廃止した。その権威の絶頂において、オフリド府主教座の権威の下に従属するのは、10の府主教座と6の監督主教座が数えられた。
聖ソフィア教会(en:Church of St. Sophia)
聖パンテレイモン教会(Church of St. Panteleimon)
聖ヨヴァン・カネオ教会(en:Church of St. John at Kaneo)
聖クリメント教会(Church of St. Clement)
聖グリゴレ教会
聖ザウム教会(Church of St. Zaum)
聖ナウム教会(Church of St. Naum)
聖ペトカ教会
聖シュテファン教会
初期キリスト教時代からの聖堂遺跡群、4世紀の聖エラスムス聖堂など
スラヴ記述文化博物館(18世紀)
古典劇場