2009年06月19日

遺伝の様式を染色体の性質や挙動によって

染色体説(せんしょくたいせつ、Chromosome theory (of inheritance), 同: 染色体学説)とは、遺伝の様式を染色体の性質や挙動によって説明する学説。この学説は遺伝子が染色体上にあることを示しており、現在生物学では当然の前提とされる。メンデルの法則の実証、古典遺伝学の発展、分子遺伝学の基礎形成に深く関連したことで、生物学において重要である。ただしミトコンドリアDNAなど細胞核外の遺伝因子による細胞質遺伝はこれに従わない。

染色体説はバッタの染色体を用いた細胞学的観察からウォルター・S・サットンによって1902年に提唱され、トーマス・ハント・モーガンらのショウジョウバエを用いた遺伝学的研究により、1920年代ごろ確立された。提唱者の名前をとって「サットン-ボヴェリの染色体説」ともいう。発癌のメカニズムについてもテオドール・ボヴェリによる染色体説があり、これと区別する必要がある場合は「遺伝の染色体説」と呼ばれる。

染色体説提唱の背景には、全ての細胞は細胞から生じるとする細胞説と、当時再発見されたばかりのメンデルの法則がある。20世紀初頭、黎明期の遺伝学と、先行して発展していた細胞学の融合から、遺伝の染色体説が誕生した。
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メンデルの法則は1865年に報告されるが、歴史に埋もれ、再発見されるまで35年を要した(詳しくはメンデルの項目を参照)。遺伝の連続性が保証される背景には細胞説があり、これに基づく古典的な細胞学は、染色・観察技術の発達とともに19世紀末までには発展を遂げていた。またヴァイスマンは遺伝因子は生殖細胞にあるとする生殖質説を提唱しており、移植実験などからは細胞核に遺伝物質があることが予測されていた。1842年に発見された染色体に関しても、続く研究でさまざまな生物種における種類や数、細胞分裂において母細胞から二つの娘細胞へと受け継がれる様子などの知見が蓄積しつつあった。

このように19世紀末には染色体説の下地ができていたが、遺伝の染色体説を主張するためには、配偶子形成における染色体の挙動を示す必要があった。なぜなら、遺伝の一過程である受精では、卵子と精子の融合によって染色体数が倍加するため、あらかじめ染色体の減数が必要である。しかし、この過程に関する知見がまだ得られていなかった。

2009年06月01日

太政官布告・太政官達

太政官布告(だじょうかんふこく)・太政官達(だじょうかんたっし)とは、ともに太政官によって公布された明治時代初期の法令の形式である。

太政官布告、太政官達は、いずれも、明治時代初期に最高官庁として設置された太政官によって公布された法令の形式である。

布告と達の区別については、当初から厳密な区別はなかったが、1873年(明治6年)には、各官庁及び官員に対する訓令としての意味を持つものを「太政官達」、全国一般へ布告すべきものを「太政官布告」として区別することを定めた(明治6年太政官布告第254号)。しかし、実際の取扱いとしては、その後もそのような区別が厳密にされていたとは言い難く、一般国民を拘束する内容を持つものであっても太政官達の形式により定めたものもあった[1]。

また、明治初期の国家意思形成の不統一性の問題もあり、規制対象を同じくする法令が何度も公布されたり、法令の名称についても、「法」、「条例」、「規則」、「律」など様々であった。また、太政官名義ではなくその下部組織の名義で公布された法令もあったが、効力関係に上下はなかったとされている。

1885年(明治18年)12月22日、内閣制が発足したことに伴い、太政官制は廃止された。翌1886年(明治19年)2月26日には、法令の効力や形式を定式化するため、公文式(明治19年勅令第1号)が制定され、太政官布告・太政官達という法形式は廃止された。
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公文式施行以前に公布された太政官布告・太政官達は、以後に成立した法令に反しない限り、その効力を保有する。

1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)には、内容が違憲でない限り有効なものとして扱う旨の明文の規定があった(76条1項)。したがって、太政官布告・達が対象が明治憲法下で法律事項とされる場合(天皇に立法権があるが、帝国議会の協賛を必要とする)には法律としての効力を有し、命令事項である場合は命令としての効力を有するものとされた。

大日本帝国憲法
第76条
法律規則命令又ハ何等ノ名稱ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ總テ遵由ノ効力ヲ有ス
1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法には、同憲法施行前の法令の効力に関する明文の規定はない。しかし、解釈上、明治憲法下で法律事項とされていたものは日本国憲法下でも法律としての効力を有するものとされている。これに対し、明治憲法下で命令事項とされていたものは、それが日本国憲法下でも命令事項である場合は引き続き命令としての効力を有するが、法律事項である場合は原則として1947年12月31日限りでその効力が打ち切られた(日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律1条)。

ただ、前述した明治初期における国家意思形成の不統一性の問題や、規制対象を同じくする法令が何度も公布されたこともあり、布告・達が後の法令で明示的に廃止されなかった場合は、後に内容が矛盾する法令が制定されたとの解釈により効力を失ったのか否か疑義が生じたものもある。

2009年04月29日

出雲神話

スサノオは、出雲の国に降り立った。そして、害獣であるヤマタノオロチ(八俣遠呂智)を切り殺し、国津神の娘と結婚する。スサノオの子孫である大国主は、スサノオの娘と結婚し、スクナビコナと葦原中国の国づくりを始めた。

出雲神話とはいうものの、これらの説話は『出雲国風土記』には収録されていない。ただし神名は共通するものが登場する。

葦原中津国平定
アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に使わした。大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も大国主の為の宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束する。この宮殿は後の出雲大社である。

アマテラスの孫であるニニギが、葦原中国平定を受けて、日向に降臨した。ニニギは、コノハナノサクヤビメと結婚した。

山幸彦と海幸彦
ニニギの子である海幸彦・山幸彦は、山幸彦が海幸彦の釣り針をなくしたことでけんかになった。山幸彦は、海神の宮殿に赴き、釣り針を見つけ、釣り針を返した。山幸彦は海神の娘と結婚し、ウガヤフキアエズという子をなした。ウガヤフキアエズの子が、カムヤマトイワレヒコ(又はカンヤマトイワレヒコ。後の神武天皇)である。

神武天皇
カムヤマトイワレヒコは、兄たちと図って、ヤマトを支配しようともくろむ。ヤマトの先住者たちは果敢に抵抗し、カムヤマトイワレヒコも苦戦するが、結局天孫のカムヤマトイワレヒコの敵ではなかった。カムヤマトイワレヒコは、畝傍橿原宮の山麓で、即位する。これが、初代天皇である神武天皇である。

神武天皇の死後、神武天皇が日向にいた時の子であるタギシミミが反乱を起こす。カムヌナカワミミがそれを破り、皇位を継ぐ。

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欠史八代
カムヌナカワミミは、綏靖天皇となるが、綏靖天皇以下の8代の天皇の事跡は伝わっていない。

2009年04月14日

張 三豊(ちょう さんぽう)

張 三豊(ちょう さんぽう、簡体字: 张三丰、拼音: Zhāng sānfēng 、1247年-没年不明)は、元・明代に生きた遼東(遼寧省)出身の道士、仙人。字は君宝、幼名は全一。伝説的な人物で、存在したかどうかは定かでない。

伝説では、少林寺で修行した後、武当山(湖北省十堰市)で武当派をつくり、太極拳を創設したとされる。

登場する歴史資料は『明史』『三豊全集』『広陽雑記』『諸真宗派総簿』『三迤随筆』『淮城夜語•張玄素入点蒼』等。

幼少の頃より、才知が抜群で経典•歴史に精通しており、一度目に通したものはすぐ暗唱できた。体や耳が大きく、ひげが矛のようだった。最初に碧落宮白雲長老に師事し、人格を磨き修養を積んでから、全真教の道士丘処機[1]に学んだという。

1314年(延佑元年)、67歳になったとき、火龍真人に道教を学び不老長寿の術を得る。それから、宝鶏(陝西省)金夢山で道教を研究し「三峰道人」と称したが、「三峰」という言葉があまり縁起がよくなかったので、後に「三豊」に改名した。

1324年(泰定元年)、77歳になった張三豊は武当山に到達。玉虚台で太極剣を研究し、さらに剛と柔の「両儀四象」で太極拳の三功(内丹太極剣三百八十四招、両儀太極拳三百八十四拳、陰陽拳)を創造した。この成功により仙人となる。

仙人になった張三豊は、130歳のときに一度息を引き取るが、埋葬される段階でまた生き返る。

張三豊の名声は朝廷に伝わり、1385年(洪武17年)、明の洪武帝(朱元璋)は137歳になった張三豊を招聘するも辞退される。さらに1417年(永楽14年)に、永楽帝が168歳の張三豊を招聘するがまたも辞退された。

フィクション
金庸の武侠小説『神鵰侠侶』のラストで、少年時代の張三豊が登場する。このときは少林寺の覚遠の弟子。楊過と会い、「左右互調」「四通八達」「鹿死誰手」の指導を受けている。

その後、時代は一気に下り、『倚天屠龍記』の冒頭では、1335年(至元2年)に90歳を迎えている。

張三豊は武術の達人という設定で、自ら「純陽無極功」「太極拳」「太極剣」といった絶技を編み出す。なお「武当七侠」という7名の弟子がおり、そのひとりの張翠山の息子が『倚天屠龍記』の主人公、張無忌である。

『大極張三豊』 [編集]
1993年公開の香港映画。邦題は『マスター・オブ・リアル・カンフー 大地無限』(日本未公開・ビデオ発売 )。ジェット・リー(当時はリー・リンチェイ)が若き日の張三豊(クンパオ)を演じた。

『少年張三豊』 [編集]
2001年中国で放送された連続テレビドラマ。全40話。張衛健(ディッキー・チョン)が張三豊を演じた。

フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール

2009年03月30日

調理(ちょうり)

調理(ちょうり)とは、食材を加工し、料理を作る過程あるいは行為。なお、日本語では料理が調理をも指す呼称として用いられることがしばしばある。

調理とは狭義には食することができない、あるいは難しいものを食することが可能あるいは美味しいものに変換することであり、広義には食事計画から調理操作を経て給食、食卓構成までに至る過程を言う。食物の摂取は生物が生存するために不可欠な行為であり、これをより効果的に遂行するために調理は実行される。また精神的な健康にも深く関連しており、個人の食嗜好を形成する。調理は文化などによっても大きくその内容が異なり、歴史と共に継続的に変化していく。調理で用いられる様々な手法や技法は、調理法と呼ばれ、調理で用いられる道具は、調理器具と呼ばれる。

調理は、調理器具を用いた技術であり、また芸術と捉えられることもよくある。長い歴史と幅広さを持ち、専門的に学んだ上で技術を研鑽する人々は多数存在する。それは、職業として行われる一方で趣味としても行われている。調理を職業とする者はコック・料理人・板前などと呼ばれる。また、調理に関する専門的な資格を有する者を調理師と呼ぶ。

調理については学問的な研究も行われており、栄養や味覚などについて自然科学的アプローチを行う「調理科学」や、歴史の変遷を追う「調理史」などがある。
しょうや ムンバ イルラ 永遠の約束 ブースター サルフ 享禄 きんちゃく パンダル マネタリ アップ アート フラゲ ニュース 星かげ 月の宮 スタジ 野の花 リミット トラック 日本海 ケーソ ブラワサ じょうるり レビュー 未来世紀 ビッドレ オーバ ストーンカメ 女峰 ブッファ シャリン セイシェル ファイ シング スチーム ティグ バトル ストップ レーダー オーパーツ ブイエ デデリ ギブアップ ピラー 時計台 タネソウ サーチカヤ タイミ レジュ

意義 [編集]
調理の意義には以下のものが挙げられる。まず安全性の確保がある。全ての食物がそのまま食することが出来るとは限らないために食材が有する、または付着している毒物の除去や無毒化が加熱操作などによって行われることが必要である。フグの卵巣除去や殺菌のための加熱などが挙げられる。また栄養の消化吸引を補助する意義もある。食物は胃腸で消化吸収されるが、調理過程で切る、刻む、すり潰すなどの操作でこれを補助することができる。また植物は加熱によって組織構造が変化し、消化吸収されやすくなる。ただし、ビタミン・ミネラルなどの微量成分は調理中に失われてしまう場合もある。また美味しさを創出することも重要な調理の意義である。美味しさは個人の味覚や外観など多様な要素が関わっており、これを追求することが調理の究極的な目的とも考えられる。

調理器具 [編集]
熱源 - かまど、焜炉、オーブン、ガスレンジ、クッキングヒーター、IH調理器、電子レンジ、トースター、炊飯器、スチームコンベクション
加熱容器 - 鍋、釜、やかん、フライパン、土鍋、飯盒、巻き焼き鍋、落とし蓋、蒸し器
切る - 包丁、まな板、目打ち
砕く - ミキサー、フードプロセッサー
擦る - おろし器、おろし金、ジューサー
潰す - すり鉢、すりこぎ、裏漉し器、ムーラン
混ぜる - ボウル、泡立て器
整える - 巻き簀(す)、串
その他 - ざる、ばんじゅう

2009年03月14日

キリスト教会史

最初に名前が知られた主教はゾシムス(433年頃)である。6世紀には、地震で破壊されたが(プロコピオス著『ヒストリア・アルカナ』より)、オフリド近隣で生まれたという東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって再建された。ユスティニアヌスによって町はユスティニアナ・プリマと呼ばれたという(彼が建てた新しい都市のうち最も重要な都市として)。しかし歴史家デュシェーヌは、別のイリュリアの開拓された町スクピがこのユスティニアナ・プリマだと主張する(Les églises séparées, Paris, 1856年 240)。新たな都市が県都かイリュリア地域圏の都となり、政治の便宜上で市はイリュリア都市のキリスト教会中心地、または帝国の南部ドナウ地域(南部ハンガリー、ボスニア、セルビア、トランシルヴァニア、モルダヴィア、ワラキア)のキリスト教会中心地にされた。ユスティニアヌス1世は、ローマ教皇アガペトゥス1世かシルウェリウスからの申し分のない承認を、この処置のためすぐ得ることはできなかった。キリスト教会の権威の侵害に加え、皇帝の行いは、イリュリア地方における教皇の司教座の典型として、テッサロニキの古代の権利に対する損害となった。それにもかかわらず、新たな司教座が要求され、事実、教会の自主独立特権、またはキリスト教会の独立特権を獲得した。その長く様々に変化させた歴史を保ち続けて、また格闘し続けて、この特性が得られたのである。ユスティニアヌスから圧力を加えられた教皇ウィギリウスは、世俗領土の広範な管内に含まれるユスティニアヌス・プリマの、大主教管区による大主教権の儀式を認めた。しかし、教皇グレゴリウス1世は、ローマ教皇の主教座に対する他のイリュリア主教たちと同様に、ローマへ従属するようユスティニアヌスを扱ったのだった。

7世紀のアヴァール人とスラヴ人の侵入は、この古代の信仰・文明化中心地の荒廃をもたらし、2世紀にわたって府主教の特性は停止状態になった。
秋日和 プレス タンポポ ダブル マイケル ビーカー ナリラ フェア ストリ テロメ シャープ オール シャッポ ゆりはま ユーアー フレア トルク リリシ マルチ ソファ ウテルス みこも コデマリ ノータッチ ヘルパー ミョウガ シビア ゼッケン プラー フィンランド 仙人掌 ゲル対策 美の気配 スタッカー ヌートリア パンサー グロビン かいづか プロポョン スイング オステ ノール おのいし お座敷 パラッツ ゆとう シナモン フットケア サポーター バスターズ

しかしイリュリアにおいて新たにブルガリア人の改宗が進んだ後(864年)、主教座が再び目立つことになり、この時代に市はアクリダの名で呼ばれていた。ビザンツ人宣教師らがこの地域で最初にキリスト教教義を説いて回ったけれども、ローマから大司教が送られた。そこから、ブルガリア人は自らの初の公式説明と、キリスト教信条と規律における事柄の勧告とを書いた。コンスタンディヌーポリ総主教ニコラオス1世ミスティコス (在位:858年-867年)の書いたResponsa ad Consulta Bulgarorumの中に見られるこのブルガリア人の業績は、中世の教会記録のうち最も影響を及ぼしたものの一つとされる [2]. しかし、ブルガリア王(クニャズ)ボリスはすぐにビザンティンの影響に感化された。第4コンスタンティノポリス公会議が869年に開催された際、ブルガリアは東ローマ帝国のコンスタンディヌーポリ総主教庁と一体化され、870年にラテン人の宣教師らが追放された。それから東ローマ帝国の府主教がオフリドを管掌するようになった。オフリドはブルガリア皇帝サムイル時代に帝国の首都となった。10世紀には好戦的な支配者の遠征により利を得て、オフリドは東ローマ帝国に新たに含まれた領土の府主教座となった(拡大したマケドニア地方、テッサリア、トラキア)。ブルガリアがフォティオスの分離(ローマとコンスタンティノープル両教会の対立)において9世紀終わり頃からコンスタンティノープル側につくと、オフリドの主教座は西方教会と教皇の影響から脱した。

1018年にブルガリア帝国は東ローマ皇帝バシレイオス2世によって崩壊させられ、バシレイオス2世はオフリドをより近くコンスタンティノープルに接触できるようにした。ここにオフリドはブルガリアのオフリド府主教座となった。1053年、オフリド府主教レオ(en:Leo of Ohrid)は、ラテン教会に対抗してトラーニのヨハネへ、ミカエル・カエルラリウスと同意の上回覧状を送った。1078年にオフリド府主教テオフィラクトゥスは、高名な中世ビザンティン聖書解釈者の一人であった。彼は自ら書いた文通において、オフリド主教座の伝統的独立性を主張した。コンスタンティノープル主教は、コンスタンティノープルから独立した主教がブルガリアにおいて聖職授与をする権限はないと言った。実際、オフリドはこの時期にコンスタンティノープルやローマのどちらとも親しく交わっていた。しかしローマの司教座のため、オフリドの感情は友好というには劣り、14世紀にオフリド主教アンティムスは、父なる神と子から精霊が突出することに対して記述していることがわかっている。けれども、ラテン人宣教師たちが14世紀から15世紀にかけオフリドに現れた。その多くがフランチェスコ会聖職者で、彼らはこの地方でのローマ教会支配権の保護を義務として負っていた。13世紀、名の知られた裁判官デメトリオスがオフリド大主教となった。

17世紀の在オフリドのラテン人司教らは、同時代の者がそうであったように、専制的な司教であった。オフリドの教会の独立は近代においてうわべだけであり、ブルガリアにおけるカトリックの影響はそのままにされていた。コンスタンティノープル総主教アルセニウスは、オスマン帝国のスルタン・ムスタファ3世の依頼で1767年についにオフリド府主教座を廃止した。その権威の絶頂において、オフリド府主教座の権威の下に従属するのは、10の府主教座と6の監督主教座が数えられた。

聖ソフィア教会(en:Church of St. Sophia)
聖パンテレイモン教会(Church of St. Panteleimon)
聖ヨヴァン・カネオ教会(en:Church of St. John at Kaneo)
聖クリメント教会(Church of St. Clement)
聖グリゴレ教会
聖ザウム教会(Church of St. Zaum)
聖ナウム教会(Church of St. Naum)
聖ペトカ教会
聖シュテファン教会
初期キリスト教時代からの聖堂遺跡群、4世紀の聖エラスムス聖堂など
スラヴ記述文化博物館(18世紀)
古典劇場

2009年02月26日

レンズマン

レンズマンとは、アメリカのSF作家E・E・スミスが作り上げた究極のヒーローの一つである。

E(エドワード)・E(エルマー)・“ドク”・スミスは、1937年から10年以上に渡り『銀河パトロール隊』を始めとする一大SF小説、レンズマン・シリーズを書き上げ、スペースオペラと言われる娯楽小説のジャンルの形成に、大きな方向付けの役割を果たした。

レンズマン・シリーズは、地球人のレンズマンである主人公キムボール・キニスンの成長と活躍を物語の軸に置き、銀河文明とそれに敵対する宇宙海賊ボスコーン(ボスコニア文明)との宿命的な全面戦争に到るまでの波瀾万丈の物語を描く。

レンズマンを庇護するアリシア人やボスコーンの背後に潜むエッドア(エッドール)人などの深遠な背景、多彩な異星種族や様々な超兵器が息つく間もなく次々に登場して壮大なスケールで繰り広げられるスペクタクルシーンなど、これ以前のSF小説とは比べものにならないほどの迫力と驚きを持って読者に大喝采で迎えられた。

スペースオペラの代表作であり極致であるとともに、その域をはみ出して1950年代以降のSFにつながる視点も含み、古典から現代SFへの過渡的な作品であるとも評される。

レンズ(アリシアのレンズ、驚異のレンズ)とは、銀河パトロール隊がアリシア人から与えられた認識票である。他者から認識されやすく、当人の行動の邪魔にならない箇所に装着する。原作では人間型レンズマンはプラチナ・イリジウム合金製の腕輪にはめ込まれ、手首に着用する(通常の場合。潜入工作の際などは肩に近い上腕、ズボンのポケット、靴の中などに仕込む場合もある)。リゲル人トレゴンシーは腕(触手)の1本、ヴェランシア人ウォーゼルは額の中央に埋め込まれるように装着されており、他の非ヒューマノイドもこれに準じていると思われる。パレイン人ナドレックがどのように装着しているかは不明(彼らの外見は温血の酸素呼吸生物には知覚不能である為、厳密な描写がほとんどない)。レンズの子供たちは、レンズそのものを自分の肌の表面に出現させる事が可能である。

分析・合成が不可能な未知の物質で出来ており、偽造は不可能である。また、既知のいかなる薬品、発生させ得る限りの高温、低温、振動、衝撃などによっても破壊は不可能である。所有する個人ごとに調製され、レンズと対になる本人にしか着用できず、着用している間は独特の光彩を放ち、この状態では無害であるが、暗い(光彩を放っていない)状態で他人が着用すれば激しい苦痛を感じて即死する。正規の所有者が死亡すると、数分後に分解消滅し、いかなる残留物も絶対残らない。

また、保有者を精神感応者(テレパス)にする機能を持つ。これにより、人類以外の異種知性体ともコミュニケーションが可能となる。言語や思考そのものだけでなく、思考を代表するメッセージであれば、いかに隠され、暗号化されていようとも即座に理解する事ができる。

このレンズを所持するものはレンズマンと呼ばれ、法と正義の執行者として既知のあらゆる宇宙において絶大な信頼を受ける。特に「リリース」(普通任務解除)され「独立レンズマン」となった者は、ほとんど無制限の権利を行使する事ができ、銀河調整官からの指示など一部例外を除き誰からも命令を受ける事は無い。独立レンズマンはその制服の色から「グレー・レンズマン」と呼ばれる。
ノーメーク ジェルカン かじぼう スリナ ひこぼ ビオトープ マイクナキ フルーツ カラー ロッキー スイン ナナカマ けいは でんと ノクラス あみだ ジャン ストーン いかりがせ ハーモニー オーリ シングル キッザニ ガポド キック ヤード ダン アップテロ トリガー タフタ ムチン キューテ タイゲーム ハーフアド ききょう リズム でんでん イーグル ディルド オーラオン スケート ラッシ フルート 時の舟 セラック キープ モノクロ デリック フリーラ ブラック

物語終盤では、エッドア人によって製造されたボスコニアのレンズが登場し、その着用者はブラック・レンズマンと呼ばれた。ただし、ボスコニアでは個人の自発的な意思や士気を重視しない為、訓練は潜在意識下において行なわれ、その能力は銀河文明に対し致命的な脅威となるほどのものではなかった。

レンズを製造できるのは第3水準以上の知性のみで、作中ではアリシア人とエッドア人、そしてレンズの子供たちだけである。ただしメンターの最期の言葉によると、アリシアには完全に自動化されたレンズ製造機が存在するらしい。

通常、レンズは1人のレンズマンに対して1個だけ供与されるが、キムボール・キニスンは潜入捜査の過程で一度レンズを失い、再度供与を受けている。

レンズの着用者は基本的に男性のみで、"レッド・レンズマン"クラリッサと彼女の娘たちは例外的な存在とされている。ただし、デイヴィッド・カイルによる外伝には彼女たち以外の女性レンズマンが登場する。

スミスによる正伝
『銀河パトロール隊』Galactic Patrol(1937年、キムがレンズマンになる所から始まる話)
『グレー・レンズマン』Gray Lensman(1939年、続編)
『第二段階レンズマン』Second Stage Lensman(1941年、続々編)
『レンズの子供たち(レンズの子ら)』Children of the Lens(1947年、キムの子供たちの世代の話)
『ファーストレンズマン』First Lensman(1950年、最初のレンズマン誕生の話。銀河パトロール隊の結成以前に遡る)
『三惑星連合軍』Triplanetary(1934年、『ファーストレンズマン』のプレストーリー)
『渦動破壊者』The Vortex Blaster(1960年、レンズマン外伝。『第二段階レンズマン』と『レンズの子供たち』の間の話。主人公はレンズマンではない。銀河調整官のキムやレーシーが脇役として登場する)

2009年02月09日

三韓征伐などで活躍した武内宿禰

蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族。
ブロース フィンガ チボウ ハロゲン アゴニスト リバタ シェル ハーフ あまおう スカム シャーク ステコミ ジャブ ブレー スリー フィッシュ ポプラ ロユリ ランブル さとち マリン マンディー プラク ヒール ルノー リスト ドオオ ヒット ダンス にしなり ブール マレー ビアン ハイタッチ デッキ エイド タグ最強 ホップ ラッチ サブリ ジェイリ タバスコ ワンダン ステーキ 恋人たち プレス オフィス レイシズ とまや バージャケ

『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけしうちのすくね。たけのうちのすくね)を祖としているが、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目(そが・の・いなめ)からで、それ以前に関してはよく分かっていない。

河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、人によっては詳細に南河内郡河南町一須賀あたり)、あるいは葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠にした土着の豪族であった、または(系譜に現れる名前などから)その地に定住した渡来人であった、などの説があるがいずれも定かではない。『新撰姓氏録』は蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。

蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。

6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われる。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代から、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもそれがうかがえる。

全盛期
稲目の代になると、過去に大臣を出していた葛城氏や平群氏は既に本宗家の滅亡により勢いをなくしており、蘇我氏は大連の大伴氏と物部氏にならぶ三大勢力の一角となり、やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力となる。また、過去の葛城氏や後の藤原氏同様、娘蘇我堅塩媛、小姉君を欽明天皇に嫁がせることにより天皇家の外戚となっていく(馬子の本居(ウブスナ)が葛城県だったことから、稲目の妻は葛城氏の出で、その血統に連なることにより、天皇へ妃を輩出出来る一族に連なったとする説もある)。

稲目は欽明天皇とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の蘇我馬子(そが・の・うまこ)まで引き継がれるが、用明天皇没後に後継者をめぐる争いがあった。蘇我氏は、小姉君の子ながらも物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、戦いで物部守屋を討ち滅ぼすと、その後は蘇我氏以外からは大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏の一極体制となる。

ここから馬子による崇峻天皇の暗殺や、推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷(えみし)による天皇をないがしろにするふるまい、蘇我入鹿(そが・の・いるか)による上宮王家(山背大兄王)の討滅、境部摩理勢の失脚などの専横ぶりが伝えられており、蘇我氏三代にわたって権力を欲しいがままにしたとされている。

しかし馬子の死後に、蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって蘇我氏の政治基盤が動揺し、それを克服しようとして入鹿による強権政治に繋がった、という見方も少なからずある。これは『日本書紀』等による蘇我氏に否定的な記述に対する反論である。

蘇我氏は、645年の中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター(乙巳の変)によって、入鹿が暗殺されるとともに蝦夷が自殺するとその勢力は大幅にそがれてしまった。

大化の改新から壬申の乱まで
しかしながらこの政変はあくまでも蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家の滅亡だけを意味する。クーデターには、傍流とされた蘇我倉麻呂(蝦夷の弟)の子である蘇我倉山田石川麻呂も、中大兄皇子の協力者として関わっていた。石川麻呂はこの後右大臣に任じられ、娘の遠智娘と姪娘を中大兄皇子の后にしている。石川麻呂自身は649年に冤罪で自害し、讒言した弟の蘇我日向も大宰府に左遷させられた(口封じとの説もある)。しかし、他の弟である蘇我赤兄と蘇我連子は、天智天皇の時代に大臣(赤兄は左大臣、連子ははっきりは分からないが右大臣と推定されている)に任じられており、蘇我氏は一定の地位を保持している。

連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去し、赤兄ともう一人の弟である蘇我果安は壬申の乱で大友皇子側について敗れ、それぞれ流罪・自害となった。その甥で連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。このように乙巳の変後も、倉麻呂の息子達がなお政治の中心的立場にとどまり、相次ぐ政争で衰退しながらもしばらくは連子の系統が続いた。

蘇我系石川朝臣
蘇我系石川氏は、飛鳥時代末期から奈良時代に、その血を引いた天皇(持統天皇と元明天皇を輩出した(それぞれ石川麻呂の娘、遠智娘と姪娘が母)。

しかしながら、蘇我赤兄の外孫である山辺皇女が、持統天皇に排除された夫の大津皇子に殉死したり、また文武天皇の妻の石川刀子娘が、天皇崩御後に某男との関係を持った事からその身分を剥奪され、子の広成皇子・広世皇子も連座して皇族の身分を剥奪される事件なども起こしている。刀子娘の事件は、異母兄弟の首皇子の競争相手を排除しようとしての藤原不比等・橘三千代夫婦の陰謀とされる。

また万葉集によれば、同じ赤兄の外孫である穂積皇子も但馬皇女との密通が露見して左遷された。穂積皇子は、幸いにも持統崩御後に知太政官事に出世したが、若くして亡くなった。

不比等の正妻は、安麻呂の娘の蘇我娼子(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合の母)である。その故を持って、その弟の石川石足と子の石川年足は、当時嫡流とされた武智麻呂を祖とする藤原南家と結びつくようになる。年足は、武智麻呂次男の藤原仲麻呂が設立した紫微中台の大弼としてその補佐に当たり、中流貴族としてなんとかその命脈を保った。

しかしながら、元明天皇から孫の首皇子へスムーズに皇位継承されなかったり、元明天皇娘で石川麻呂の曾孫にあたる吉備内親王が長屋王の変で夫や子と共に自害するなどの一連の政争があり、これは藤原氏と石川氏との間にも権力闘争があったためとする見方もある[1]。

衰退
しかし、その藤原南家が藤原仲麻呂の乱で衰退してしまうと、石川氏も平安京遷都後亡くなった正四位上・参議、石川真守(年足の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消した。蘇我氏の血統は、女系ではあるが藤原氏を通して現代にも伝わっている。五摂家の一つ、近衛家の跡取りで、映像クリエイターである近衛忠大は不比等・娼子から46代目の子孫にあたる。

蘇我氏渡来人説
現在蘇我氏渡来人説というものがあり、学者間で議論となっている。その例を以下に記す。

応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物であると言う説。提唱者は門脇禎二。
稲目の父は高麗(こま)、祖父は韓子(からこ)で、継体紀の継体24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)を娶りて生めるを韓子とす)と書かれていることから生じた説である。つまり、皇別の武内氏が渡来人系の妻に産ませた子供が蘇我氏になったという説である。(当時の豪族は、姓は父方から受け継がれる代わりに、名は母方や養育者から付けられるという風習が流行っていたと見られている。)
ただし、いずれも決め手となる証拠がないために通説になるには至っていない。

系図
 孝元天皇
   ┃
 彦太忍信命
   ┃
 屋主忍男武雄心命(『古事記』には無し)
   ┃
 武内宿禰
武内宿禰以前は後世の架上と言われており、蘇我石川宿禰も子孫の石川氏による創作と見る説がある。

           武内宿禰
            ┃
          蘇我石川宿禰
            ┃
            満智
            ┃
            韓子
            ┃
            高麗(馬背)
            ┃
            稲目
        ┏━━━╋━━━━━━┓
   欽明帝┳堅塩媛  馬子     境部摩理勢 
 ┏━━━━┫      ┣━━━┓
推古帝  用明帝    蝦夷 倉麻呂(雄当)
             ┃   ┣━━━━━━┳━━┳━━┳━━┓
            入鹿 倉山田石川麻呂 赤兄 連子 日向 果安
                 ┃          ┃
            天智帝┳姪娘         安麻呂  
                 ┃           ┃
                元明帝 

2009年01月24日

アッコにおまかせ!

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『アッコにおまかせ!』は、TBS系列で放送されているバラエティ番組。放送時間は毎週日曜日11:45 - 12:54。ハイビジョン制作。1985年10月6日に放送開始し、2005年10月に満20周年を迎えた長寿番組である。

1984年10月7日、生放送バラエティ「ゆうYOUサンデー!」司会に和田アキ子(和田にとっては事実上の第1回)と古舘伊知郎が就任(前任は大沢悠里だったが、低視聴率のため降板、和田・古舘に交代して視聴率が上昇し、TBSの日曜お昼12時台の長期低落傾向に歯止めをかけた)。1985年4月に「アッコ・古舘のアッ!言っちゃった」に改題を経て、さらにリニューアルして1985年10月当番組がスタート。1987年10月には、低視聴率のため終了した「歌のアルバム」の枠を吸収、約70分間の大型番組となり、現在に至り、裏番組のNHKのど自慢に視聴率が迫る勢いになり、これまでの日曜お昼の民放の王者だったフジテレビ「クイズ・ドレミファドン!」を打ち切りに追いやったが、現在は「ウチくる!?」と分け合っている。

放送開始から長らく生放送のトークバラエティとして、ゲストとのトーク、生中継のクイズなどで構成され、ときおりハプニング性を取り入れた企画を差し挟み、人気を集める。1999年頃から内容を一新し、和田の毒舌を生かしたワイドショー形式のバラエティとして衣替えし、芸能ネタや珍事件などを取り上げた内容と知能や世間の常識を問うクイズやゲームを行う構成になった。

基本的に生放送、司会やレギュラー及びスタッフの季節別休暇や、和田アキ子のディナーショー・コンサートの準備などに配慮してたまに収録を行う場合もある。その場合は、生放送を行った直後に翌週分の収録を行っている。録画バージョンでは録画であることははっきりとは言わないが、オープニングの『今日のスポーツ紙一面紹介』を省略したりするなどの進行、編集、テロップの出し方などで分かる他、出演者があえて録画であることを匂わす発言をすることもある。また、冒頭の和田の挨拶が通常の場合が「今日も元気に生放送」と言っているのに対し、収録の場合は「今日も元気にお送りします」になっており、「生放送」という言葉を使っていないことでも見分けがつく。いかにこの番組が生放送番組として認知されているかを、番組側も充分理解しているということを示しているものである。

毎週、出演者のちょっとしたハプニングがあり、生放送らしい展開が見られるが、OA前のカメラリハーサルでは、出演者全員が台本を持ち、和田が取り仕切り、振り、立ち位置の指定に至るまで本番さながらの綿密な打ち合わせをしている。

アッコのいいかげんに1000回との関係
この番組は、前日にニッポン放送他放送されているラジオ番組「ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回」と少なからず関係がある。番組収録のためには、前日までにはロケ先から東京に戻っている必要がある。そこで週末のロケを断る理由を作るために、前日に生放送のラジオ番組を設けたという経緯がある。また、アッコにおまかせ!の「芸能&ニュースどばっと1週間」での和田のコメントは、ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回の「週間芸能フラッシュ」コーナーで知った話題・知識を元にコメントを発することが多い。そのため事実を誤認した偏ったコメントを出すことも多く、それが和田批判の原因となることも多い。 また、同番組の発言内容を参考にして、「アッコにおまかせ!」の企画を構成していると思われる部分も多く、まれに番組を通してテレビの制作スタッフへメッセージを送ることもある。

出演者

司会
和田アキ子
峰竜太(4代目 1993年10月 -)
安東弘樹(TBSアナウンサー、休暇の場合は小林麻耶アナが代理で出演することもあり)

準レギュラー
準レギュラーは、「男性タレント」「お笑いコンビ」「お笑いタレント」「女性タレント」の組み合わせで不定期出演する(月1回程度の出演となる)。準レギュラーは流動的でかつて出演していたにも関わらず最近では全く出演しなくなったものもいる。

男性タレント
勝俣州和
出川哲朗
松村邦洋
お笑いコンビ
よゐこ
ますだおかだ
ライセンス 他
お笑いタレント
光浦靖子(オアシズ)
竹山隆範(カンニング)
ほっしゃん。
はるな愛 他
女性タレント
安田美沙子
磯山さやか
くまきりあさ美
和希沙也
大島麻衣(AKB48) 他
レポーター
山崎まさや

ナレーター
DJ ARCHE
中井和哉(『芸能&ニュースどばっと1週間』担当)
神田理江(『同上』担当)

司会
キッチュ(初代 1985年10月 - 1986年9月 現:松尾貴史)
生島ヒロシ(2代目 1986年10月 - 1992年3月 元TBSアナウンサー)
田中義剛(3代目 1992年4月 - 1993年9月)
榊原郁恵(和田アキ子の代役)
山瀬まみ(同上)
古舘伊知郎
小林豊(TBSアナウンサー)
浦口直樹(同上、不定期)

準レギュラー
吉村明宏 - 歩道橋クイズ・アッコジャンボ宝くじなどの中継担当
バカルディ(現:さまぁ〜ず) - 中継担当
クワバタオハラ - アシスタント
胡蝶蘭 - アシスタント
ベッキー
穴井夕子
大森玲子(現:相原玲子)
伊集院光
新山千春
酒井彩名
ガレッジセール
雨上がり決死隊
くりぃむしちゅー
アリtoキリギリス
川村ひかる
来栖あつこ
MEGUMI
根本はるみ
小池栄子
藤井隆
堀越のり
山崎邦正
5番6番
夏川純
あびる優
若槻千夏
ほしのあき
品川庄司
中川家
チュートリアル
レギュラー
FUJIWARA
熊田曜子
ブラックマヨネーズ 他多数のゲストが出演している。

オープニング
1985年10月 - 1999年3月:生放送のスタジオが背景で、初代の番組タイトルロゴが動くというもの(途中からロゴが白から赤に変化している)。
1999年4月 - 2004年3月:初めて音楽を変更し、テーマ曲に男性のコーラスが入る
2004年4月 -:キューブ型の和田と峰が動き出す、3DCGによるアニメ。タイトルロゴも、現在のもの(2代目)を使っている。

オープニング
6秒のタイトル直後に2分45秒のCM(ローカルセールス)が入り、安東アナによる「今日は何の日」のコーナー(20秒)に入る。その後また1分30秒のCM(ネットセールス)が流れ、本編に入る。従って、本編が始まるのは11:49:41である。

前半
芸能&ニュースどばっと1週間/おまかせ!トピックス
普通の芸能・時事情報に加え、他局ではやらないB級記事、そして「おまかせ」独自で調査したインタビュー内容などを紹介している。後半開始前までCMは挟まない。

後半
週代わりの企画(「おまかせ!調査隊」など)
ゲーム企画
和田とゲストがチーム戦or個人戦で頭を使うゲーム企画に挑戦する。勝ったチーム及びクリアした正解者には商品として高級デザートなどが食べられる。ただし、放送時間の都合から引き分けとなった場合は全員に贈呈される場合もある。司会は安東アナと峰が担当。
企画は週代わりで数本の企画が行われ不定期で入れ替わっている。過去には『全員正解あたりまえ!クイズ』や『おまかせシックスセンス』等のように、ゲーム化・独立番組化した企画もある。

That's宝くじ
生放送終了の12:50:54 or 12:51:09から1分間放送される、宝くじの広報番組。2008年4月6日放送開始。1週間内に行われた数字選択式全国自治宝くじ「ミニロト」「ロト6」「ナンバーズ」の抽選結果をお知らせする。司会は峰竜太と「AKB48」から週替わりで1名(大島麻衣、河西智美、板野友美)が務める。このコーナーは収録放送となっている。

エンディング 
12:52:54から6秒間、オープニングと似たロゴが表示されて放送終了する。

過去の主なコーナー
アッコジャンボ宝くじ(1985年10月 - 1998年9月)
吉村明宏が各地でロケを行う。番組冒頭に場所を伏せて中継を行い、「近所の方はここに(指定の時間までに)預金通帳を持ってきてください」と呼びかける。そして番組最後にスタジオの和田が抽選を行い、持ってきた通帳残高の下3ケタが一致すると賞金10万円がもらえる(当選者が出ないとキャリーオーバー)企画。
なお年末には、100万円がもらえる特別大会が行われた。この時は、当選者が出なくても100万円はキャリーオーヴァーしなかった。
番組初期~中期の名物企画で、スタジオから和田が中継先を呼びかけた後に吉村が発した「は~ひふへほ~!」(番組MCの和田のモノマネ)は人気を博した。
ゲストトーク(1985年10月 - 2001年3月)
全員正解あたりまえ!クイズ(2005年8月21日放送分からコーナーレギュラー化)
この企画のみ5度位、特別番組として単独化され、それが人気になり2005年10月から独立してレギュラー番組になることが決定された(水曜20:00-20:54 初回は18:55 - 20:54の2時間スペシャル)。しかし、視聴率の低迷により2006年2月8日の放送をもってレギュラー放送は終了した。
おまかせ!シックスセンス
横浜ベイスターズ応援プロジェクト
始まった当初は前半の冒頭で中継レポーターのジョーダンズ・山崎まさや(初回はTBSアナの小笠原亘だった)が直接横浜の選手に会って当番組内で生出演し、週間MVPの表彰を行いおまかせメンバーとのトークをしていた。
しかし、2005年5月29日にベイスターズが千葉マリンスタジアムで千葉ロッテマリーンズとの交流戦に臨む直前、スタジオにゲスト出演した阪神タイガースファン(阪神ファン)の泉ピン子に、和田が「TBSだからやんなきゃならないのよー」と小声で漏らし、横浜ファンの怒りを買った。
元々、現司会者の峰竜太が中日ドラゴンズファン(準レギュラーでも出川哲朗や松村邦洋など違う球団のファンが多い)であるため、番組自体のモチベーションが低いどころか、8月7日には芸能コーナーで佐々木主浩の引退を取り上げる際、年俸を1球ごとに換算して出演者一同であげつらうという、年俸を提示した側である親会社の番組とは思えない、あさましい態度も示している。
そのためシーズン途中から番組後半に回され、VTRで表彰されることが多くなった。2006年度でコーナーは終了。

フジテレビとの二元生中継(2005年7月24日)
笑福亭鶴瓶とココリコの遠藤章造と田中直樹が途中乱入し、鶴瓶は下半身はブリーフ1枚(勿論下にボクサーパンツを履いていた)、上半身はTBSのロゴの付いた黒Tシャツ姿で登場した。また、鶴瓶はこの日の裏番組であるフジテレビで『FNS25時間テレビ』(FNSの日)の総合司会をしており、フジテレビのカメラも同伴していたため、TBSとフジの二元生中継となった。さらに、「全員正解あたりまえ!クイズ」をフジテレビと行い、TBS側に鶴瓶とココリコ遠藤・田中が加わり、フジテレビ側では今田耕司、西山喜久恵アナ、高島彩アナが参加した。番組エンディングはいつも「アッコにおまかせ!」と和田をはじめ出演者がピースをすることとなっているが、当日は鶴瓶が突然逃亡した為行わなかった。これはTBSとフジテレビが事前に打ち合わせを行ってちゃんとした演出を出していたからと思われる。
(※さらにフジテレビの当番組は昨年(2004年、総合司会はナインティナインの矢部浩之と岡村隆史とSMAPの中居正広)もテレビ朝日系のSmaSTATION-3との二元生中継となった。)

古舘伊知郎が司会を務めていた時期、山陰地区では裏で同じく古舘がアナウンスを務めていた頃のワールドプロレスリングを放映しており、番組内でも採り上げられていたが、当時山陰でワールドプロレスリングを放映していたのはFNS系列の山陰中央テレビだった。

和田アキ子アポロ・シアターコンサートにより欠席(2008年9月28日)
2008年9月29日(現地時間)、和田が日本人で始めてアポロ・シアターでの単独公演により渡米。これにより9月28日の生放送には出演できなかったが、事前収録は行なわれず峰と安東アナウンサー、若手芸人達で生放送を行なった。これまで事故による入院などで急遽、和田不在の状態で生放送を行なった事はあるが、事前に出演不可能な事が判明している上であえて不在のまま放送したのはこれが初である[1]。翌週10月5日の放送では和田の単独公演の密着ドキュメントが放送される。
和田不在で生放送を行なう事は前週の9月21日の放送の時点で告知がされており、放送内ではフリップで『苦節18年「峰におまかせ!」ついに放送』と煽っていたが、テレビ番組表や番組内でのタイトルは『アッコにおまかせ!』のままになっていた。

その他の出来事など

【芸能ネタ関係】
和田と同じ事務所に所属する未成年女性タレントが、他局の番組において万引き事件を告白し社会問題化した件では、番組内コーナー「芸能&ニュースどばっと1週間」で一切扱わなかったことから、一部週刊誌において「アッコが頬かむり」との批判を受けることとなった。
1999年5月から6月にかけて、「サッチー・ミッチー(浅香光代)騒動」が起こり、ある週の放送ではその渦中にあった野村沙知代をゲストに迎える予定であった。しかし彼女は結局出演をすっぽかした(無断でキャンセル)ため、スタジオには最後まで現れず、この件をきっかけとして和田との関係が一時悪化した。
2002年5月25日放送分で、俳優の伊藤俊人の死去のニュースを扱った。この際、内容を紹介した安東が”気分が悪くなった”を”機嫌が悪くなった”と言い間違えたため、それを和田が茶化し、笑い飛ばしていた。この放送に対し、翌日からTBSに対し複数の抗議があったとされ、翌週の放送で安東が経緯説明と謝罪を行ったものの、茶化した側の和田からは謝罪の類がなく、別の批判を招くこととなった。
2007年12月9日放送分で、すぎもとまさと(作曲家・杉本真人)が紅白歌合戦に初出場する話題について触れ、和田が「(すぎもとを)ぜんっぜん、存じ上げません!」と発言。その後スタッフの調べにより、過去に和田自身の楽曲を杉本が提供していたことが明らかになり、番組中に和田が杉本に対し土下座して謝罪するという珍事が起こった。
2008年11月9日の放送分で同番組スタッフが大阪拘置所に収監された小室哲哉に和田アキ子の著作『大人の叱り方』差し入れをした。安東アナは「アッコさん本人は関知しておりません。この取材はいきすぎたアプローチであったと考えております」と述べた。
2008年11月30日の放送分で、和田が「第59回NHK紅白歌合戦」出場者の一部に対し「絞めてやりたい」と発言した。番組ではどの出場者であるのかは言及しなかったが、「週刊新潮」によるとPerfume(アミューズ)とGIRL NEXT DOOR(エイベックス)に向けられたものだとのこと。

【時事ネタ・緊急ニュースなど】
1997年8月31日、ダイアナ元妃が交通事故に遭遇したというニュースの詳報を、パリから衛星中継にて伝えたが、同日の同番組放送中に元妃の死去が明らかとなり、エンディング直前にニュース速報にて再度伝えた。
2005年3月20日午前、福岡県西方沖地震が発生し、番組内でも時間を割いてこの件を伝えたが、地元ネット局であるRKB毎日放送では、番組を休止しローカルの報道特別番組を編成した。
上記同様に2007年3月25日午前に発生した能登半島地震の際にも、番組内で一部コーナーを休止して時間を調整し、この件についての詳報を伝えた。

【プロ野球日本シリーズとの連携】
プロ野球日本シリーズがデーゲームで行われていた時代(1993年まで)は、大抵日曜開催の試合の放映権をTBS系列が持っていた関係で、試合直前の開催球場からの生中継を織り交ぜたことがあった。その際のリポーターは当時TBSのスポーツ実況アナウンサーだった石川顕が担当しており、球場の石川や解説者(張本勲、田淵幸一など)とスタジオの和田らのやりとりもちょっとした名物となっていた。
その内、本編で前記の石川が名実況(「清原が優勝目前、涙を流しています!」)をした事で有名な1987年(西武対巨人)の第6戦の際には吉村明宏が西武ライオンズ球場に出向き、スタンド内の観客が和田らに出題する「観客席クイズ」(「歩道橋クイズ」の変形版)が実施された事がある。

2009年01月17日

プラトン(より正しくは「プラトーン」

プラトン(より正しくは「プラトーン」、希: Πλάτων / 羅:Platon / 英:Plato, 紀元前427年 - 紀元前347年)は古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子でアリストテレスの師。

ディオゲネス・ラエルティオスによると、プラトンの本名はアリストクレスであるが信憑性は少ない。アカデメイアという名で学校を開いたため、プラトンの後継者はアカデメイア派と呼ばれる。プラトンとアリストテレスの思想は西洋の哲学の大きな源流となった。また、その理想とした社会像は共産主義におけるプロレタリアート独裁にも深い影響を与えたとされる。
月のかげ ラビオリ サターン ドレス りんね テクノ ブッシュ スパイダ オーバー ブイエ ふたり星 天下り カウント ターボト リフォ プロライツ ロデオ ワーク ション 雲水 会津か シルバ カマーバ バッファー デビット ガボンド ジャップ ティー あの町 スペア ポール ブイトール ローリング オートミー トルマ ビュー ワッフ セサミ ナビマス モチの木 へんぱ シャーマ アカウンテ ストーク ナレータ しちか ブリックス タンパ アカハラ ロケハン

『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作はそのほとんどが対話篇という方式を採っており、一部の例外を除けば師のソクラテスを主要な語り手とする。

初期のプラトンは「敬虔」や「勇気」といった古代ギリシアの伝統的な徳とは何か、それは教えられるものかどうかを探求したが著書の中では直接答えは与えられない。中期には世界を、目に見える現実の世界「現実界」と、そのもとになる完全にして真実の世界「イデア界」に分けるイデア論を展開した。

輪廻転生説を含むピュタゴラス学派の思想、特に幾何学を重んじる思想を学び、中期以降その影響が見られる。またパルメニデスなどのエレア派にも関心をよせ、後期対話編ではエレア派の人物をしばしば登場させている。

プラトンは初めて理論的に人間の心を考えようとした人物であり、魂の三区分説を以って人間の心の動きを説明しようとした。人間を霊魂(心)と身体(肉体)に分けて考えている。

なお、レスリングが得意であったらしい。
プラトンは紀元前427年、アテナイ最後の王コドロスの血を引く貴族の息子として、アテナイに生まれた。

祖父の名前にちなみ「アリストクレス」と名付けられたが体格が立派で肩幅が広かった(希: πλα̃τύς(platys))ためレスリングの師匠であるアルゴスのアリストンに「プラトン」と呼ばれ以降そのあだ名が定着した。

若い頃は政治家を志していたが、やがて政治に幻滅を覚え、ソクラテスの門人として哲学と対話術を学んだ。紀元前399年、アテナイの民主派によってソクラテスは、「神々に対する不敬と、青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられ、死刑を宣告され、毒杯を仰いで刑死する(この裁判の情景を描いたのが『ソクラテスの弁明』)。

この後プラトンはアテナイを離れイタリア、シチリア島(1回目のシチリア行き)、エジプトを遍歴した。このときイタリアで、ピュタゴラス派およびエレア派と交流を持ったと考えられている。

紀元前387年、アテナイ郊外に学園アカデメイアを設立した。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学などが教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。弟子にあたるアリストテレスは17歳のときにアカデメイアに入門し、そこで20年間学生として、その後は教師として在籍した。

紀元前367年、友人ディオンらの懇願を受け生涯に2回目となるシチリア島のシュラクサイへ旅行した。シュラクサイの若き僭主、ディオニュシオス2世を指導して哲人政治(大対話篇『国家』に示される)の実現をめざしたが着いた時にはディオンは追放されており不首尾に終わる。

紀元前361年、ディオニュシオス2世自身の強い希望を受け、3度目のシュラクサイ旅行を行うが、またしても政争に巻き込まれ今度はプラトン自身、軟禁されてしまう。この時プラトンは、友人であるピュタゴラス学派の政治家アルキュタスの助力を得てなんとかアテナイに帰ることが出来た。哲人政治の夢は、紀元前353年にディオンが政争により暗殺されることによって途絶える。

晩年のプラトンは著作とアカデメイアでの教育に力を注ぎ、紀元前347年(紀元前348年ともいわれる)、80歳で死亡した。
一般にプラトンの哲学はイデア論を中心にして展開されるといわれる。生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な雛型があり、イデアこそが真の実在であるとした。不完全である人間の感覚ではイデアをとらえることができず、理性によってのみとらえることができるとした。また、イデアの認識は、いわば忘却されていたものの想起 anamnêsis であって、その想起からはかつて属していたイデアの世界を憧れ求めるところのエロス erôs が生じるとした。

このためプラトンは、経験主義のように人間の感覚や経験を基盤に据えた思想を否定した。感覚は不完全であるため、正しい認識に至ることができないためである。また、プラトンは芸術についても否定的な態度をとった。視覚でとらえることができる美は不完全なものであり、芸術はイデアの模倣に過ぎない現実の事物をさらに模倣するもの、さらには事物の模倣に過ぎないものに人の関心を向けさせるものとして、価値を見出さなかった。

ただし、プラトンの著作の中でイデア論が明確に展開されるのは、中期の一連の対話編に限られる。晩年のプラトンがイデア論をなお維持していたかについては、「エイドス」(形)などのイデアの類義語をただちにイデア論と結びつけることが可能かどうか、「ある」(存在)の把握の差異などをめぐり、研究者の間で見解が分かれる。

倫理学
プラトンの倫理学の特色は「徳は知である」[2]という記述に集約されよう。ただしこれは徳が伝達可能な技術知であるという意味ではない[3]。 徳は想起 (anamunesisi) の知であり(同81)、イデアに思索的に至る形而上学的知である。すなわち、プラトンは形而上学とひとつになった倫理学を初めて確立した。

しかるに、かかる技術的に教え得ない知識を自分も深め、人に勧告するには「魂の気づかい (epimeleia tes psyches) 」[4]が必要であるが、この意味は理念的な徳の内的理解にむけての精神の教育ということであり、その目的は、眼に見えぬ理念の理解をつうじて善のイデアという最高存在にまで精神の射程が及ぶことである。

その倫理学は国家学、政治学という社会的レベルをその帰結とする。ひとの霊魂が理性、意志および情欲にわかれるように国家構成階層も支配階層、防衛階層および職能階層にわかれ、それぞれに該当する徳は知恵、勇気および節制である[5]。 これら三つの徳が調和すれば正義が実現される[6]。国家の最重大事業は教育であり[7]、すなわちプラトンの倫理学は、個人倫理、同時代に対する社会倫理としての政治学、未来に対する倫理学としての教育学、に三分されるのである。

後世への影響
アリストテレスの思想の成立に師プラトンが大きく関与したことは議論を待たない。ただし、その継承関係には議論があり、アリストテレスはプラトンの思想を積極的に乗り越え本質的に対立しているとするものと、プラトンの思想の本質的な部分を継承したとするものとに大きく分かれる。

プラトンの影響としては、ネオプラトニズムといわれる古代ローマ末期の思想家達を挙げる事が出来る。「一者」からの万物の流出を説くネオプラトニズムの思想は、成立期のキリスト教やルネサンス期哲学、さらにロマン主義などに影響を与えた。(ただし、グノーシス主義やアリストテレス哲学の影響が大きく、プラトン自身の思想とは様相が異なってしまっている)

プラトンは『ティマイオス』の中の物語で創造者「デミウルゴス」がイデア界に似せて現実界を創りあげたとした。この「デミウルゴス」の存在を「神」に置き換える事により、1世紀のユダヤ人の思想家アレクサンドリアのフィロンはユダヤ教とプラトンを結びつけ、プラトンはギリシアのモーセであるといった。『ティマイオス』は西ヨーロッパ中世に唯一伝わったプラトンの著作であり、プラトンの思想はネオプラトニズムの思想を経緯して中世のスコラ哲学に受け継がれる。

なおアトランティスの伝説は『ティマイオス』および『クリティアス』に由来する。

著書
プラトンの著書として伝わるものには、対話篇と書簡がある。ただしそのうちにはその真偽が疑わしいものや、多くの学者によって偽作とされているものもある。

プラトンの著書の真贋はすでに紀元前のアレクサンドリアの文献学者によって議論されてきた。現在伝わる最初の全集編纂は紀元前2世紀に行われた。古代ローマのトラシュロスは、当時伝わっていたプラトンの著作をその内容から執筆順に並べ、かつ主題に沿って4部作集に編纂した。現在のプラトン全集は慣行によりこのトラシュロスの全集に準拠しており、収録された作品をすべて含む。ただしトラシュロスはすでにこのとき幾つかの作品はプラトンのものであるかどうか疑わしいとしている。

プラトンの真筆であると一致している著作のうちもっとも晩年のものは『法律』である。ここでは『国家』と同じく政治とはなにかが語られ、理想的な教育についての論が再び展開されるが、哲人王の思想は登場しない。また特筆すべきことに、『法律』ではソクラテスではなく、無名の「アテナイから来た人」が語り手を務める。多くの研究者は、この「アテナイからの人」をプラトン自身とみなし、語り手の変化を、プラトンがソクラテスと自分の思想の違いを強く自覚するにいたったため、ソクラテスを登場させなかったとみなしている。

『法律』の続編として書かれたであろう『エピノミス』(『法律後編』)では哲人王の思想が再び登場するが、『ティマイオス』の宇宙観と『エピノミス』の宇宙観が異なること、文体の乱れなどから、ほとんどの学者は『エピノミス』を弟子あるいは後代の偽作としている。ただし少数の学者は『エピノミス』を最晩年のプラトンがその思想を圧縮して書き残したものと考えている。

プラトンはイソクラテスの影響を受け、中期より文体を変えていることが分かっている。文章に使われる語彙や母音の連続などを調べる文体統計学により、現代ではかなりの作品の執筆順序に学者間の意見は一致している。たとえばトラシュロスが『クリトン』の後においた『パイドン』(ソクラテスの死の直前、ピュタゴラス学派の二人とソクラテスが対話する)は、中期の作品に属することが分かっている。ただしその内容から、幾つかの作品については執筆年代についての論争がある。

テアゲスという作品は一般的に偽作とされているが、真作であることも否定できない。真作か偽作を判断するのは 容易ではない。カルミデスという作品も偽作の疑いがある。法律も一部偽作の疑いがある。プラトンの偽作論争は今日でも続いている。偽作か真作かを認めないかでプラトンの思想は大きく変わってくるので、この問題は重要である。

一覧
初期(主にソクラテスの姿を描く)
『ソクラテスの弁明』
『クリトン』
『プロタゴラス』
『エウテュプロン』
『ヒッピアス (大)』
『ヒッピアス (小)』
『ラケス』
『カルミデス』
『リュシス』
『ゴルギアス』
『メノン』
中期(イデア論を展開)
『饗宴』
『国家』
『クラテュロス』
『パイドロス』
『パイドン』
『アルキビアデスI』
『アルキビアデスII』
『パルメニデス』
後期(研究者によってはイデア論を放棄した時期とする)
『テアイテトス』
『ソピステス』
『政治家』 (ポリティコス)
『ピレボス』
『ティマイオス』
『クリティアス』未完
『ヘルモクラテス』未筆
『法律(ノモイ)』
『エピノミス』(法律後篇)-ただし偽書の疑い濃し
アクシオコス  徳について  定義集